「私はここにいていいの?」と感じるあなたへ~存在価値の不安を和らげる考え方と安心感の育て方
誰かの人生にそっと寄り添う、言葉の温もり
トラウマセラピストmiwakoです。
普段、私のメルマガを
読んでくださっている方から、
時折温かいご感想が届きます。
私が一方的に届けた言葉を、
読んだ方がどのように受け止めて
くださっているのかが分かるのは、
私にとって何より大きな励みです。
そのため、できる限り心を込めて
お返事を書くようにしています。
メルマガに届くメッセージは、
メールアドレスのやり取りだけなので、
もちろんお相手が
どこのどなたなのかは分かりません。
それでも、文章の端々から
「その人」が感じられます。
皆さん、ご自身の抱えている悩みや葛藤を
少しだけ打ち明けてくださることが多くあります。
カウンセリングの場ではないため、
詳しい背景まで踏み込むことはありませんが、
誰もが何かしらの重荷を背負いながら、
それでも日々を一生懸命に生きている。
その健気で愛おしい姿に、
私の心はいつも強く揺さぶられます。
私はいつも思っています。
私の放った言葉の先に、
読者お一人お一人のかけがえのない人生があって、
そこをほんの少しだけ
垣間見せていただいているのだと。
以前、あるベテランのカウンセラーさんが
「僕たちはクライアントの心の中に
お邪魔させていただく座敷童だ」と
おっしゃっていました。
本当にその通りだなと感じます。
カウンセラーが上の立場から
アドバイスをするとか、
相手を救ってあげるなんていうのは
傲慢な考えです。
私たちはどこまでも、
その方の人生の「添えもの」に過ぎません。
クライアント様の人生という大切な物語の片隅に、
そっとお邪魔させていただく座敷童。
そんな控えめで温かい意識を、
これからもずっと大切に
持っていたいと思っています。
西本願寺で出会った「誰もが、ただ、いていい場所」という安心
ここから少しお話が変わりますが、
私は昔から夏がとても苦手で、
夏場はほぼ家に引きこもって過ごしています。
ですが、空気の底に
ひんやりとした冷たさが混じり始める秋の時期は、
一年の中で一番大好きな季節です。
街を歩くとふわりと金木犀が香り、
なんだかわくわくして心が躍ります。
だからこの季節になると、
少しでも時間ができると
どこかへ出かけたくなります。
先日も午後から少し時間が空いたので、
京都の西本願寺(浄土真宗本願寺派)へ
足を運んできました。
私自身、浄土真宗に
特別なゆかりがあるわけではありません。
しかし、西本願寺の境内は
とても広いのに混雑しにくく、
観光客で賑わう京都の中でも
不思議と心が静まる落ち着いた場所なのです。
そして西本願寺の入り口に、
このような言葉が書かれています。
「誰もが、ただ、いていい場所」
私はこの言葉が本当に好きで、
目にするたびに心が温かくなります。
西本願寺というお寺は、
まさにその言葉通りの空間です。
参拝する特別な目的や理由がなくても、
ただふらっと立ち寄って、
そこに佇んでいるだけで
包み込んでくれるような優しさがあります。

「ここにいていい」と感じられない理由と生きづらさの本質
私がお話しをうかがう多くの方の心の奥に、
「私はここにいていいのだろうか」
「私には存在価値があるのだろうか」という
不安を抱えている人がとても多いと感じます。
なぜ私たちは、これほどまでに
「ここにいていい感覚」を
見失ってしまうのでしょうか。
その理由としては、
私たちが幼少期の家庭環境や、
現代社会の構造によって
「条件付きの安心感」を
植え付けられてしまったから
だと推測できます。
- 「テストで良い点を取ったら褒められる」
- 「人の役に立っているから価値がある」
- 「周りの期待に応えているから、ここにいて許される」
このように、「〇〇ができる自分」には
価値があるけれど、「何もできない素の自分」には
価値がないと思い込まされてきたのです。
その結果、何か立派な成果を
出していないと不安になり、
自分自身をずっと見張り続けるように
なってしまいます。
この「成果や役割がないと
存在してはいけない」という潜在的な恐れこそが、
日常の生きづらさを生み出す
大きな原因になっています。
しかし本来、人間というのは誰であっても、
何か特別な才能があってもなくても、
ただそこに存在しているだけで
歓迎されるべきなのです。
「見真」の教えから学ぶ、思考のパターンから抜け出す方法
西本願寺の本堂には、「見真(けんしん)」と
書かれた大きな額が掲げられています。
「見真」とは仏教用語で、
智慧(ちえ)によって
真理や真実を正しく見極めることを意味します。
ここでいう「智慧」とは、
自分の偏った思い込みや迷いを断ち切り、
物事の本質をありのままに
見つめる心の働きのこと。
つまり、智慧という透明な眼で
真実を見抜く姿勢こそが「見真」なのです。
私はいつもこの文字を仰ぎ見るたびに、
背筋がすっと伸びて身が引き締まる思いがします。
- 「私は今、目の前の物事を正しく見られているだろうか?」
- 「自分に都合の良い解釈ばかりをして、相手や自分を歪めて見ていないだろうか?」
家の中で一人パソコンに向かっていると、
どうしても慣れ親しんだ思考の癖や
感情のパターンに陥りがちです。
「どうせ私なんて」
「やっぱりうまくいかない」といった
ネガティブなループに
入り込んでしまうこともあります。
ともすれば無意識のうちに
同じパターンを繰り返してしまう自分を、
一度立ち止まって客観的に見つめ直す。
そのために私は、特別な目的がなくても、
外の空気に触れるために
お出かけをするようにしています。

「ここにいていい感覚」を取り戻すための3つの具体例
「自分はここにいていいんだ」という感覚は、
頭で「そう思おう」と念じるだけでは
なかなか育ちません。
日常の中の小さな行動を通して、
身体と心に少しずつ安心感を
染み込ませていくことが大切です。
今日から実際に試せる具体例を
3つご紹介します。
①「ただそこにいるだけ」の時間を自分に許す
公園のベンチやカフェ、お寺の境内など、「何かを生産しなくても怒られない場所」へ行き、10分間だけただ座ってみましょう。
スマホを見るのを少しやめて、「私は今、何も達成していないけれど、ただここで息をしている」という事実を感じてみてください。
②「条件付きの自分」だけを認めるのをやめてみる
「仕事が頑張れたから偉い」といった成果主義の評価ではなく、「今日一日、生き抜いた」「朝起きて顔を洗った」という、何気ない存在そのものに「お疲れ様」と声をかけてあげてください。
③1日5分でも「誰の期待にも応えなくていい一人時間」を作る
職場や家庭で誰かの期待に応え続けていると、「自分」が見えなくなります。連休中や忙しい時こそ、鍵がかかる部屋や散歩道で、誰の役割も演じなくていい「一人だけの安全な空間」を死守してください。
一人で抱えきれなくなったときは
日常の中で少しずつ外に出たり、
思考のパターンを変えようとしても、
長年抱えてきた「ここにいてはいけない」という
不安が強すぎて、
一人ではどうしようもない時もありますよね。
部屋の中で一人で煮詰まっていると、
アイデアも希望も浮かんできません。
ですが、ほんの少し視点を変えたり、
誰かに気持ちを吐き出したりするだけで、
心には驚くほどの余白が生まれるものです。
私のカウンセリングでは、
何か立派な目標を話す必要も、
自分を良く見せる必要も一切ありません。
あなたが抱えている悩みや不安を、
そのままの形で持ち寄ってください。
あなたが「ただ、そこにいていい場所」として、
座敷童のようにそっと寄り添いながら、
あなたのお話をお伺いします。
「少し心がしんどいな」
「自分のパターンから抜け出したいな」
と感じたときは、
どうぞいつでもお気軽にお話しに来てくださいね。
もし長い記事が疲れるなと感じたら、
エッセイカテゴリーに短めの文章もあります。
気軽に読める内容なので、
ちょっとした息抜きにどうぞ。
あなたの心が軽くなる一言が
見つかるかもしれません。
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